わざわざ言及して頂きすみません

My computer is not a Synthesizer: Extended Open Source
http://8-p.info/blog/articles/2005/10/10/extended-open-source

しばらく前に、自分のはてなブックマークdel.icio.us/kzys を冗談で登録してみたら、むかしNKN:ノータリン感想ノート - 「内藤裁判 - 逆転裁判 in FF11 -」に見る「コミュニケーションのコンテンツ化」と「コンテンツのオープンソース化」の可能性をブックマークしたことについて、書き手のうぼしさん(のサブアカウント)のはてなダイアリーからリンクされていて、ちょっとびっくりしました。

ソーシャルブックマークで批判的なことをするのは自分には向かないみたいで、どうにも気持ちが悪いので、いまさらですが "disagree" なんてタグをつけた理由を書こうと思います。

まず、自分は「広義のオープンソース」のようなものが、あまり好きではありません。オープンソースというのは、きちんとした定義があり、ある意図の基にある人物が作った言葉であって、あまり拡張するべきではないと考えています。

たとえば、はてな社の近藤社長の ised@glocom での発言は、オープンソースとバザールモデルを混同していると思います。

まずどこがオープンソース的なのかといえば、ユーザーの参加性です。たとえばはてなのユーザーからの機能要望や、動作のおかしいところのご指摘といったものが数多く寄せられるのですが、はてなの側でも、それをなるべく多く早く採用しているんですね。ここにユーザーのはてなへの帰属意識や所有意識が非常に強いという、前回の設計研でも出てきた部分とが関係しているんだと思うんです。

ただ本来のオープンソースとの対比で考えてみたのですが、基本的にはてなソースコードというのは公開されていないわけです。公開されていないけれども、たくさんの人がコミットしているのはどこかといえば、その機能やアイデアの部分なんですね。つまり、「人文系オープンソース」をはてなはやっているんだと思うんです。たとえば脆弱性の発見はコードを知らなくてもできるという話とよく似ている。

そういうわけで「コンテンツのオープンソース化」にも違和感がありますし、ほとんどのコンテンツでは、ソースをクローズドにした状態は成り立たないとも思っています。Lawrence Lessig の講演から引用します。

そしてさらに重要なことに、1790年には、当時の技術のために、著作権で保護されたすべてのものはフリー・コードだった。シェイクスピアの作品を見れば、ソースを読むことができる??ソースこそが本だ。法律で保護されたどんな創造作品でも、手にとって学ぶことで何が重要なのかを理解できた。それがデザインであり制度だった。特許についてさえ、テクノロジーは明瞭(トランスペアレント/透明)なものだった。機織り機を理解するために、特許状を読む必要などない??ただ分解してみればいい。 当時の著作権や特許は、学習し理解することは自由のままという文脈のなかでの法的な保護だった。この文化のなかでのコントロールはわずかだった。わずかなコントロール…いい響きだ。だろう?

コンピュータソフトウェアでは、作り手が書いたソースコードコンパイルして、それを出荷するというかたちをとっているものがほとんどです。 Macromedia Flash でつくられた .swf ファイルは .fla ファイルをコンパイルしたものですから「オープンソース化」もアリでしょうが、コンテンツという非常に広い範囲について「オープンソース化」を定義するのは、かなり無理があると思います。

id:uboshiが馬鹿すぎるせいでご迷惑をおかけしたようでごめんなさい!
つーか今回はぼくも悪いですね(;´Д`)


文系的なオープンソースの解釈がアレだというのはその通りだと思います
自分で書いてしまっておきながらこういう事を言うのも無反省なようで白々しいですが、
ああいうのはあくまでも「(理系用語である)オープンソースを拡大解釈した上で作られた概念」であって
それが元の「(理系用語である)オープンソース」と同一視されるのは危険だと思いました

そういえば、最近『ハッカー宣言』という本が、どうもハッカーを誤解しているんじゃないか、と話題になっていました。社会学ポストモダンの魔の手が、コンピュータやインターネット側にものびてきているのかもしれません。みんな逃げて!

ハッカー宣言』は山形浩生さんが
少し前に話題になったエントリーで引きあいに出していた本ですね
ぼくは読んでいませんが……


メディアリテラシーの練習問題;室井尚の奇妙な反・嫌煙運動プロパガンダ
http://cruel.org/other/smoking.html

ハッカー宣言』なる本の、たいへんにすばらしい解読と、非常にだらしない書評を読んで、やはり白田秀彰は本当にえらいなあとの印象を新たにしたのである。

 白田は、このダメな本の問題点をきちんと見て取っているし、またこの本が持ち出す変な構図の中で自分をハッカーの一員として位置づけることのヤバさも十分に理解している。かれの読みは明快で、この一文を読めば実は「ハッカー宣言」なんて本は読む必要がない。

 ところが一方のだらしない書評を書いた大学人は……室井尚か。やれやれ。この人は本書を読んで、自分がなにやら新世代の生産者であるとか思いこんで舞い上がってしまっている。実にプロパガンダに踊らされやすい人だ。そして情報がどうしたこうした言いつつ、実はその中身について実にお寒い理解しかないこともよくわかる。以下、褐色部分は引用。

ハッカー階級とベクトル階級の対立とは、情報を生産する者と本来共有されるべき情報を不当に「私有」し、情報の生産構造を支配しようとする者との対立である。後者は情報を囲い込むことで不当な利益を得ているマイクロソフト社やホリエモンのような人たち」ですと。あのさあ、自分で作ったソフトを売ってもうけるのがなぜ不当なの? マイクロソフトが自分の作ったソフトをどうしようと、それは室井の知ったことじゃない。それが不当なら、世のソフトウェア企業はほとんどすべて不当利益集団だ。さらにマイクロソフトソースコードを公開してないという点で「情報を囲い込む」といえるだろう。でもホリエモンがどんな情報を囲い込んだというの? さらに、情報を囲い込むことで利益を得ている人なんかたくさんいる。当の室井ですら、著作権により自分の著作の情報を囲い込んでる。知識(たいしたものではなさそうだが)やら技能(前に同じ)を脳内に囲い込んで切り売りすることで(つまり生産構造を支配することで)、大学の教員としてご託をたれてるわけだ。

 要するに、ハッカー階級と称する連中だって、しょせんベクトル階級とやらと同じ穴のムジナでしかないのだ。はっきりした質の差があるわけじゃない。ただの程度問題。さらに社会に対する得体の知れない思いこみときたら頭痛がするほど。「金儲けは卑しいものであるという倫理観を取り戻すことは重要である」!! この低級な「倫理」とやらが、ヨーロッパにおけるユダヤ教徒迫害につながり、ポルポト政権下でも商人弾圧・虐殺につながり、最近ではインドネシアにおける華僑迫害をもたらしたという認識は、もちろん室井にあるわけはないが、情けなや。まったく、金儲けが卑しいというんなら、室井は給料や印税返上してごらんよ。「株式市場で利益を生み出している人たちは「何も生産しておらず」単に、「博打打ちの親玉」(by 西垣通)、「剽窃者」にすぎない」!! 株式市場の仕組みもろくにご存じないのだねえ。さらに自分が資本主義の余剰にたかって生かしてもらっている滑稽の一種でしかないという自覚もないのだねえ。たぶんこの「ハッカー宣言」は、何一つ生産せずにご託をたれているだけの学者に「あんたも生産者だ!」と言ってあげて、自分は社会的に無意味な存在じゃないかという口舌の徒にありがちなコンプレックスを慰撫して人気を得ようとしたんじゃないかと思う。そしてそれにまんまとはまった人もいるわけだ。


ハッカー宣言

ハッカー宣言