批判と愚痴

独り言的内容。(嫌な人は読まないで!)

  • 批判とは他者に向けた言葉である。
  • 愚痴とは自己(あるいは内面の他者)に向けた言葉である。
  • 批判は他者に向けた言葉であるがゆえに、他者とのコミュニケーションの成立によって初めて意味を形成する。相手が自分の放った批判に対して再批判を試みれば、さらに自分から再々批判を試みることができるようになる。これが一般的意味での「議論」である。
  • 愚痴は自己に向けた言葉であるがゆえに、他人とのコミュニケーションの成立を必要としない。愚痴は愚痴として、ただただ内面の他者に対して投げかけられるものである。ただし、自分の愚痴は同様の愚痴(を言う動機になるような不満)を持つ他者に届いた場合、他者による自分に対する「共感」が発生し、コミュニケーションが成立する場合がある。(参考:ARTIFACT ―人工事実― : 欲しいのは「陰口で繋がる自由」
  • インターネット上の人間同士のコミュニケーションにおいては、この両者がしばしば混同・誤解されて議論される。
  • ケース1:Aの発した「批判」が他者Bに「愚痴」として受け止められた場合。Aは往々にしてBの応答を「批判」と受け止め「コミュニケーションが成立した」と誤解してしまうのだが、実際にはBはAの批判を「批判」ではなく「愚痴」と受け止めているので、Aに対する正常な再批判を試みることができず、ただただ気分的な(愚痴的な)レスポンスを返すしかなくなる。そうなると今度はAは再帰的に前述の批判を繰り返すか、またはBの「気分の表明(愚痴)」を「批判」と誤解したまま再批判を行うしかなくなり、まともなコミュニケーションは成立しなくなってしまう。
  • ケース2:Aの発した「愚痴」が他者Bに「批判」として受け止められた場合。Aははじめからそれを他者に向けたものとして書いていないので(愚痴だからだ)、もしもBがAの愚痴に対する批判を試みてコミュニケーションの成立を期待した場合、他者に向けていなかったはずの言葉が他者に届いてしまったことにただ困惑し、「そんなつもりじゃなかった」としどろもどろの弁明を行うしかなくなってしまう。ここでBが身を引けばコミュニケーションは「不成立」という形で完結するのだが、BがAのそうした態度を例えば不誠実だなどと言って糾弾した場合、Aは深刻なダメージを受けてしまう場合がある。
  • ブロゴスフィア」などという嫌らしい言葉で形容される日本のブログの一部では、インターネットは世界中に公開された場であるという認識から、何らかの形で他者に言及するような言葉は「批判」と称せられ、複数人による議論の展開が期待されるが、しかし、あるブログで書かれた内容が「批判」であるか「愚痴」であるかはその本人にしか計り知れないものであって、上記したようなコミュニケーションの齟齬があって初めてそれが「批判」たるが「愚痴」たるかが規定される、といっても言い過ぎではないだろう。
  • さらに厄介なのは、日付によって区切られ、なんとなく毎日書くことが強制的に義務付けられているかのように見える「ブログ」だか「ウェブ日記」だかの形態が、まさしく一般的意味での「日記」と類似した形で自己(内面の他者)の実存と結合してしまった場合、そこに書かれた内容が(「インターネットに乗せられているから他者に向けた言葉なんだ」という原理主義的意見はさておくとしても)「他者に向けて書かれた言葉」であるのか「自己に向けて書かれた言葉」であるのかの区別は、ほとんど「ブログ」を書いている自己にすら判断不可能になるということであって、そのような状態で「愚痴」を「批判」と自分自身で誤認したまま他者に言葉をぶつけると、そこにはおおよそ不毛なコミュニケーション不全しか立ち現れない場合が殆どなのである(cf:「炎上」問題)。
  • 自分自身、いろいろな事情から数ヶ月間ブログをろくに更新できない日々が続いてきて、かつての自分がいかにブログの毎日変わる日付に縛られていたかが客観的に見えるようになってきた。あの時の僕は何か強制的に書かねばならない衝動に襲われていて、おおよそそれが「他者に向けた言葉」なのか「自己に向けた言葉」なのかの倫理的判断など、思いもよらぬことだったように思う。
  • そんな僕は、今、rir6さんの新しいエントリーを読みながら、こんなことを考えて、本家ブログの更新は近日中に再開する予定です。とか書いてしまう自分が少し嫌いだ。