「空気を読む」

上の記事と関連して
コミュニケーション作法の話でよく言われる「空気を読む/読まない」に関連した記事


loveless zero: 空気の読める社会(1)
http://www5.big.or.jp/~seraph/mt/000108.html

このような多層構造で見てみると、「空気」は、「コンテクスト」が意味するところにかなり近いが、状況よりのコンテクストを主な対象としている。「多様な価値観」の参加者による「ローコンテクスト」なコミュニケーション空間と言っても、その多様さ・コンテクストが想定するレイヤと「空気」は必ずしも矛盾するものではない。


では、一体何故、今の日本では「空気を読む」ことがこれほど重視されるのか。1つには、昨今様々なハラスメントが話題になっているように、人の感情を害すること、気分を悪くする事を極端に避けようとすることがある。しばしば聞かれる「人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」というのは、逆に言えば、「人に迷惑をかけることは避けたい」ということである。総じて、人間関係が脆くなっているということなのかもしれない。そのような中で、「価値観の多様化」ということになると、共有しているコンテクスト(比較的静的なコンテクスト)がだんだん減ってくる訳だから、会話の流れや相手の感情の変化を素早く読み取って臨機応変に対応していかなければ、まさに私たちが避けたがっている、人の感情を害する状況に、すぐに陥ってしまう。伝統的な「あうんの呼吸」はもはや死語なのかもしれないが、多くのコミュニケーションシーンでは依然として行間の大きい場合が多く、「静的な文化のコンテクスト」が相対的に小さくなった分、「動的な状況のコンテクスト」を読む力がより要求されてくるのである。


「空気を読む」力とはすなわち、価値観が多様化しつつある中で、あくまで人を不快にさせることなくスムースにコミュニケーションを行うためのコンピテンシーである、と言える。


まなざしの快楽 - なぜ「空気が読めないことが最も嫌われる」のか?
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050825#p1

内部はコミュニケーションにより、作動するわけであるが、かならずしも対面している必要はない。特に最近はマスメディアの影響が多い。あゆファンというコンテクストを共有するためには、あゆにあう必要がないだけでなく、あゆファンにあう必要もない。マスメディアを通して、あゆファンがいるという情報のみで強い内部への帰属意識をもつことができる。


ボクはこのような状態を「ハニカムハーツ(蜂の巣状化するこころたち)」*2と呼んだ。この場合、家族、学校などの社会的、物理的に近接した周りは、外部となる。蜂の巣の中一人で、マスメディアの向こうの見知らぬ人々と直接的なコミュニケーションなく、内部が作動し、コンテクスト、すなわち価値観がつくられていく。これはオタク化であるとともに、引きこもり、ニートなどは、より強く社会的なコンテクストから離脱した人々であるといえるだろう。


しかし完全に社会から、現前の他者から遮断されることなどできない。親からの注意、あるいは恋愛などで、外部と遭遇したとき、ハニカム内のコンテクストが、社会的なコンテクストと大きく遊離しているときには、闘争がおこる。

しかし最近ではネットの発達により、ハニカム化していても、外部とコミュニケーションすることが容易になった。そのために従来「ハニカム化」していた内部を繋ぎ、ネット上で内部を作動させることが可能になる。たとえばその顕著な例が、「電車男」である。*3「電車男」の感動とは、内部にいることの共有である。そしてこの内部を作動させているのは、エルメスを女神とすること、すなわち外部に疎外し超越させることである。「転倒」において神性は捏造される。しかしエルメスは一つのメタファーであるといえる。それは女性全般を意味し、さらには社会そのものを指す。


あるいは、ネット上に氾濫するヘイトスピーチも同様な構造をもつと言える。ネット上などのヘイトスピーチは、そこに差別する外部を想定することを意味する。それによって、場の緊張をやわらげ、発話者たちが内部にいることを強調する。そしてこのような「転倒」においてたとえば「朝鮮人は〜だ。」などの神話が捏造される。


そもそもネット上はコミュニケーション不全の場である。このような場において、多くにおいて社会的な他者(有名人など)を外部として攻撃し、場の緊張を緩和し、内部として作動させる。繋がりを強化する。そしてネット上はうわさ話(神話)の宝庫である。

id:pikarrrさんの記事は要約困難なので、リンク先から全文を読んで欲しいんですが
社会学的な見地から「空気を読む」ことの意味を解説されています


しかし、いくら「小さな内部」で「人間」たるための「小さな闘争」を皆が行っているとしても
それが常識化した世界ってのはそれはそれで嫌だなあ(感覚的に)
なんか、上っ面だけで全然平和じゃねーじゃんって感じがするんですけど


もじれの日々 - 「空気を読む」
http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20050820

「(場の)空気を読む/読めない」という言い方が流行っているんだって。まったく、いやな言葉ほど流行るものだ。この言葉は、まともに取り組もうとするなら「いったいど、ど、どうしたら…(空気を読めるようになるのか)」という隘路にしか導かれず、また逆に戦略的に利用する場合は大勢=体制による「異質なもの」への抑圧にしか至らない。どうしても使いたいのならばせいぜい、「何て場の空気の読めないパソコンだ!」(パソコンが急にフリーズした時に)、あるいは「何て場の空気の読めない霊だ!」(金縛りにあった時に)、などの形でしか使い道のない言葉だろう。この種の言葉は他にもある。「生きる力」、「人間力」、「抵抗勢力」などもそうだ。そうした言葉に共通した特徴は、①曖昧である、②規範的・価値的尺度性を含んでいる、言い換えれば人間の評価・格付けに用いられる、③様々な文脈で用いることができる、などの点にある。これらの言葉は、恣意的な基準で他者を排除しようとする際に用いられやすいためタチが悪いにも関わらず、ある種の便利さをはらんでいるのでいっそう普及・増殖しがちである。個人的にお勧めの対策は、「そんなもん知るか、ケッ」という態度を貫くことです。


でもじゃあお前が持ち出す「対人能力」はどうなんだとつっこまれるとしたら、それは価値的に振り回すためにではなく、その言葉とがっぷり四つに組んで胸倉つかんで引きずり回すために、あえて注目し解明する必要があるのだというのが私の答えだ。分析概念だ、と言ってもいい。ただ、次の本で実際にどれくらい相手の首根っこを押さえられているかというと、はなはだ自信がないけれど。

「空気を読む」という言葉自体が、その曖昧さ故に
「闘争」の道具にされる可能性についての指摘


参考:空気の読めない男を教育する - [出会い]All About