あたまをつかう

昨日の夜は眠れなくて退屈だったので
普段なら読ま(め)ないだろうアカデミックな長文をよんでみた


読書の自由と解釈の不自由と (1)
http://www.h7.dion.ne.jp/~pensiero/study/literary1.html
読書の自由と解釈の不自由と (2)
http://www.h7.dion.ne.jp/~pensiero/study/literary2.html


これでも、学術論文としては
コンパクトに纏まっていて読みやすいぐらいなんだろうと思う(知らないけど)


1.二つの誤謬:出発点としてのニュー・クリティシズム
http://www.h7.dion.ne.jp/~pensiero/study/literary1.html

彼らはこれまでの文学批評が、ロマン主義的な伝統に浸った挙句、単なる印象批評・主観的批評の中で自己満足していたことを厳しく批判する。「そんな批評など、うららかな午後の一時にサロンやカフェに集まったマダムやジェントルマンが、お茶でも飲みつつ有閑階級気取りで語らい合うおしゃべりと大差がない」とでも言わんばかりに。そして、旧来の批評が犯していた「二つの非客観的な誤謬」を指摘する。それが「意図に関する誤謬」と「情動に関する誤謬」である。これらは、具体的な批評の方法と言うよりは、むしろ批評を行う際の前提ないし基本的態度とでも言うべきものである(既に述べたように、この二つの概念を主旋律に、本論は展開する)。これらの概念を提唱したのは、NC の代表論者ウィムザットである。彼は美学者ビアズリーとともに、「意図に関する誤謬」と「情動に関する誤謬」という、その名もずばりの二本の論文を発表し、NC のカノンを打ち立てた。彼等の議論が主として詩についての批評を念頭にしている点に留意しつつ、以下、その二つの論文に目を通してみよう。


まず、何はともあれ、ウィムザットのテーゼを引用することから始めよう。

我々は……客観的な批評へ向けての障害を巧みに迂回できるであろう二本の道を探索しているのだと信じている(もっとも、実際には、この二本の道を批評や詩作は踏み外してきたのだが)。「意図に関する誤謬」とは、詩とその起源とを混合することを指す。……意図に関する誤謬は、批評の基準 standard を詩の心理学的な原因から引き出してこようとすることから始まり、最後には単なる自伝や相対主義に陥る羽目になる。「情動に関する誤謬」とは、詩とその結果とを混合すること(つまり、詩が何であるかと詩が何をするかとの混合)を指す……。情動に関する誤謬は、批評の基準を詩の詩の心理学的な効果から引き出してこようとすることから始まり、最後には印象主義相対主義に陥る羽目になる。どちらの誤謬にせよその行きつく果ては、特にも批判的判断の対象であるはずの詩そのものが消滅していくことである。(Wimsatt & Beardsley 1949, p.21)

手短に言えば、意図に関する誤謬とは「作者の意図に照らして詩を判断しようとする誤り」であり、情動に関する誤謬とは「詩が読者に与える効果に照らして詩を判断しようとする誤り」のことである。そして、これらの誤謬を避けるべく、ウィムザットらは「詩を詩そのものに照らして客観的に判断する」ことを目指すのである。

いやー素晴らしい
どっかの馬鹿にも是非聞かせたいテーゼですねギャハハハハハハ


著者さんのメインサイトこちら
まだ20代後半と言う若さで
京大の非常勤講師をされているスゴイ方らしい(プロフィール


なんとなくリンク集をみていたら
「Art」カテゴリのとこに

【asian gothic】

↑「もの、痕跡」と「asian gothic」の二つのカテゴリーは、完全に私個人の嗜好です。要は、私はこういうのが好きなのです

theinvisiblegunレコメンド→敵はほんのり塩味