アニメや漫画などはリッチなオタクの子供しか作り手になれなくなる?

更新停止中に「ARTIFACT ―人工事実―」の新エントリー「オタク趣味は金をかけなくてもできるようになった」が話題になっていたようなので、僕も今更ながら読ませていただいたのですが、エントリーの内容でちょっと気になる部分があったので、重箱の隅突付き的に言及したいと思います。


本文中で加野瀬さんは、鈴木謙介さんのエントリー「SOUL for SALE :: 格差バブルと下層の論理」を引きつつ、大衆文化の消費者が持つメタストック(文化資本)の格差について言及されているのですが、

これは音楽だけではなく、文化全般にいえる話。


 お金をかけないオタクは過去の資産を持たないけど、リッチなオタクはきちんと過去の資産を持っている。アニメや漫画なども、そういったリッチなオタクの子供しか作り手になれなくなってしまうという未来を想像してしまいました。

と述べられている部分を読んだ時に妙な違和感を覚えたので、自分なりに何故違和を感じたのかを考えていたのですけども、本来創作の形態ではなく消費の形態である(と僕が勝手に思っている)「オタク」が、まごうことなき創作の形態である(ハズの)「ミュージシャン」=「音楽一家」と対比されて語られているからだと言うことに思い至りました。


オタク趣味に詳しい人がやがて自身でもそうした文化を創造していく=漫画やアニメの作り手になる、と言うのはよく見られる光景であるのは間違いないのでしょうけれども、だからと言ってそこから「アニメや漫画なども、そういったリッチなオタクの子供しか作り手になれなくなってしまうという未来」が想定される、と言うのは、オタクと言うのが元々創造ではなく消費の為の態度であると言うことからすると無理があるのではないでしょうか。「音楽一家」と同じような二世三世が生まれていくと言う視点から見るのであれば、むしろ「リッチなオタク」の子孫は「リッチなオタク」になる可能性が(「アニメやマンガの作り手になる」よりも)高く、「漫画やアニメの作り手」の子孫は「漫画やアニメの作り手」になる可能性が高い、と言った見方の方が妥当であるような気がします。


同じ「漫画」と言う文化に接している人物であっても、それを「消費する」為の文化資本=メタストックを持っている人と、それを「創造する」為の文化資本=メタストックを持っている人は理論上全くの別人であるはずです(当然その両方を備えた人もいるのでしょうが)。勿論、同じ文化に接しているのは変わりないので、例えば漫画オタクの息子が漫画家になる、とか漫画家の息子が漫画オタクになる、というようなクロスオーバー的な現象は起こりうるかもしれませんけど。