逆ジェンダーエンタテインメント

id:kanoseさんの過去記事を
id:amiyoshidaさんがぶくまで引っ張り出していた


はてなブックマーク - ARTIFACT ―人工事実― | 逆ジェンダーエンターテイメント
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://artifact-jp.com/mt/archives/200401/reversegenderent.html

2005年09月12日 kanose 『[反応]わ、なんか発掘されてる』
2005年09月12日 amiyoshida 『[ジェンダー][kanose]元気な女の子が主人公の逆ジェンダーエンターテイメント作品が必要だという提案について』

素でビックリしてるkanoseさんモエス


で、元記事は↓
ARTIFACT ―人工事実― | 逆ジェンダーエンターテイメント
http://artifact-jp.com/mt/archives/200401/reversegenderent.html

 逆ジェンダーエンターテイメントは面白い提案だと思ったので、人と話してみたんですが、少年向け作品は、現実の延長線上のものが多く、どうしても自分の身と比較しやすい部分が出てくるという問題がある。だから、現実との繋がりをなくすために、舞台は現実世界ではなく、主人公を女性にして…と、どんどんフィクション度を高くすれば、良質のファンタジーを提供する装置としてうまく機能するのではないかという話に。
 ただ、女の子ばかりが出てくる男の子向け作品は、オタク向け作品に多く、どうしてもオタク文脈に回収されてしまう危険性が高いです。無言の日記でも指摘されていた「性的視線」ですね。
 たとえば、このコラムでは、少年たちに「大きなお友達のように開き直って深夜アニメを見る自由はない」と書かれてますが、『クロノクルセイド』や『一騎当千』といったアニメはもともと漫画が原作です。これらの漫画が掲載されているマイナー漫画雑誌には、「ドジでも元気でめげない女の子が脳天気に活躍するマンガ」がたくさんあります。
 コラムの提案では、そのようなマイナー漫画雑誌ではなく、メジャー少年漫画に逆ジェンダーエンターテイメントを増やすのが目的なんですけど、これらを読んで満足してしまうということも考えられます。
 表面的には違いがわかりにくい作品との差別化など、障害は多々あるので、可能性としては面白いんだけど、実際に考えると細い道だよなーというのが実感でした。

記事の冒頭でかのせさんが引いているのは、ゲーム会社STINGの中にある
エンターテインメントコラム集"VOICE"」のひとつ「slashを読む日本人が見たやおい漫画を読むアメリカ人」の第三十回記事


slashを読む日本人が見たやおい漫画を読むアメリカ人 : フランス人にも突然だったジャンプ『ヒカルの碁』の連載終了
http://www.sting.co.jp/voice/v38/v040106.htm

  と、ここまで書いてきて、

  腐女子には……むさいオヤジの渋いやおいマンガ
  女の子には……男の子がけなげに頑張る少年マンガ
  大きいお友だちには……元気な女の子たちが活躍する深夜アニメ

  とそれぞれ楽しめる作品市場が用意されているのに対して、「男の子」には、一体、何があるのかな? という疑問が浮かんだ。

  そう。男の子たちには今、そういった逆ジェンダーエンターテイメント作品がまったく用意されていないのだ。

  小学生の作文を集めたある本の中で、現職の小学校の先生でもある作者がこう嘆いていた。

  女の子は大人しければ、『おしとやかでイイ子だ』と褒められ、元気で男勝りだと、これまた『勝ち気でイイ子だ』と褒められる。なのに、男の子はいつも『騒ぐな、暴れるな、規則を守れ』と怒られてばかりいる。だから毎日、ものすごくストレスをためているんだ、と。

  男の子だって内心、「ドジでも元気でめげない女の子が脳天気に活躍するマンガ」を読んで憂さ晴らしをしたいに違いない。だが、今の社会はまだ、「男の子が女の子のマンガを読むなんて」といぶかる意識が強い。大きなお友達のように開き直って深夜アニメを見る自由は与えられていないのだ。それなのにすぐ社会は少年たちを「キレやすい」などと批判する。たまったもんじゃない。

  優れた男性児童文学者には、これからは是非、女の子が活躍する男の子向けジュブナイル小説をどんどん書いてほしい。そして大手漫画出版社には、男の子でも手に取りやすい少女漫画を出してほしいと思う。

ちなみにこのコラムの執筆者である「スラッシュ君」氏は
対訳による「アメリカ版やおい小説紹介ページ」アメリカンやおいの管理者さんらしい


この記事に対するid:TRiCKFiSHさんの反応が面白かった
(記事の日付は2004/01/29/Thu)


TRiCK FiSH blog. - 「逆ジェンダーエンターテインメント」について
http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20040129/p1

 ただ、これらの現象(男性が女性主人公のマンガを読むこと)は、女性が男性の主人公のマンガを読んで、感情移入することとは、ちょっと違うような気がしてならい。というのも、『エマ』などはメイドものということもあり、男性がどうも「萌え」てるっぽいからだ。

 しかし、「萌える」ことが、すなわち感情移入を否定するものだとも言えない。なぜなら、「萌え」ながら感情移入することも考えられなくはないからだ。すなわち、そこでは男性が女性キャラに感情移入しつつ、同時に女性キャラに「萌える」、というような重層的な(?)視点が成立しているようなことが想定できる。

 つまり、ここでの男性読者は、〈A:主人公に萌える男性読者〉でありながら、同時に〈B:主人公に感情移入する女性〉であるのではないか、ということが考えられる。もちろん、〈A〉の立場だけでただ「萌え」ている場合もあるだろうし、〈B〉の立場だけで感情移入している場合もあるだろう。

 lepantohさんが指摘しているのは、この〈A〉が〈B〉に優先してしまうということで、そこでこの両者は、必ずどちらか片方かが優位になるような、両天秤にかけられたようなものだと想定されている。そして僕は、そのような両天秤構造そのものに疑問を感じているわけだ。

 では、この〈A〉と〈B〉の立場が同時に成立してしまうのはなんだろうか。考えられる可能性として、これは自己同一性が保持されておらず、人格が解離しているような状況になっていることが推察できる。つまり、〈A〉でありながら〈B〉であり、また〈B〉でありながら〈A〉であるが、しかし、〈A〉と〈B〉それぞれが見知らぬ他人同士のように存立している、ということだ。

 これが成立する理由として考えられるのは、他者(ここでは〈B〉)の視点を獲得しているものの、自ら〈A〉にそれがフィードバックしてないということを意味していているように思える。ネガティブな表現をすれば、他者の視点を知ってはいるが、それを内面化できていない、ということだ。

こっからはオタク批判的な内容になってるんだけど
コメント欄まで読まないとid:TRiCKFiSHさんの意図が伝わらないかも


TRiCK FiSH blog. - comment?date=20040129
http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/comment?date=20040129

asazow 『こんばんは浅野です。この話しって、トゥームレイダーやチャーリーズエンジェル見てる男性にも敷衍できる話しなんですか。ホモやおい本描いてる女性同人誌作家は性行為を異性同士に仮託してる、みたいなところにも敷衍して行けるんですか。細木数子が「結婚式の日取りは男性の吉日に挙げないと不幸になる」「女性は主体を持つな」という近代以降のジェンダー構造を補強する動きを解体に追い込むんですかね。この論の行方がとても気になります。』 (2004/02/04 19:30)

TRiCKFiSH 『>asazowさん。ご無沙汰です。お元気ですか?▼ご指摘の件、鋭いですね。まず、『トゥームレイダー』や『チャーリーズエンジェルズ』についてですが、これは北米や欧州での捉えられ方と日本での受容のされ方がとても異なるような気がしてならないのです。ですから、単純に敷衍はできませんね。誰が見るかというので異なってくるので。それらの映画は、欧米では男女ともに支持されていると思いますが、日本ではどうも女性が中心になっているっぽい気がするんです。▼また「戦う女性」という表象に目を向けてみると、日本の男性には京極夏彦の『ルー・ガルー』やアニメ『ほしのこえ』のような、斎藤環さんいうところの『戦闘美少女』が人気を集めるのに対し、アメリカのそれは「戦う(大人の)女性」になります。この違いは大きいですよね。ちなみに、僕は『チャーリーズエンジェルズ』など「戦う女性」にけっこうグッときたりはするのですが、「戦闘美少女」には萌えられません。逆に言えば、「戦闘美少女」に萌えられないから、「戦う女性」にグッとくるような気がします。そして、この違いは大きいような気がしますが、それがなにかというのは、なるほど説明ができませんねぇ。なにか浅野さんから仮説はありますか?▼また、ヤオイ女性が男性に仮託しているかどうかは、私は判断を留保ということで。いまのところはわかりません。3ヶ月後くらいなら、たぶんある程度のお返事はできるかと思いますが。▼また、この論が、女性が両天秤構造下で劣位に置かれていることにどう影響を与えるかは知りません。が、どちらかというと僕が男なので、女性解放を促すというよりかは、男性への挑発のほうが大きいかもしれませんね。なぜなら、加藤秀一が述べているように、男性が「フェミニスト」を名乗ることはとても難しいからなんです。ただし、フェミニズムジェンダー論の知見を援用して、「男性学」を語ることはできるかな、と。』 (2004/02/06 02:38)

さりげなく斗貴子さんの名前が出てて笑った


しかし、こういう問題って文化論としてでなく
単なる男女の性(的な事柄)に対する感覚の差、として片付けたら
拙劣な原理主義論になっちまうのだろうか?


finalventの日記 - 調査元:発狂ニュース島…
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20050911/1126428858

ネタのつもりのQなんだろうがごくごく常識的な線の答えが出てしまっている。男性の場合、精通・夢精の時期に相当しているし、女性の場合は、ま。というか、このあたりで、実は、男性のそれと女性のそれと意味が違う。

 この意味の違いと性幻想のありかたはけっこうマジな問題なのだが、どの程度研究が進んでいるだろうか。ちなみに、日本の性教育とかはれいの左翼さんたちのあれも実に即物的なんでそうした即物性の左翼的な効果はあるのだろうけど個人の性的な解放というテーゼには結びつかないというか、そのあたり、日本のフェミニズムの単調・政治収斂性と米国のアクティブなフェミニズムの個の解放性とすげー違うっていうかこのあたりはしかしかなりテクニカルな領域なんできちんと文献読んでねー私が突っ込むのは危険なんだが。

 あまり言うのもなんだが、ツンデレ…というのをよく私が理解しているわけではないが、このデレ化のところに先の性幻想性が関連しているわけで、このあたりの自己受容の問題というのが擬似的に恋愛とかモテ系の問題にすり替えられてしまうとしたらマジーなんだがなとは思う。恋愛は人を救わないとまで言い切れないが、ま、むずかしい。

 ま、生きていくのは難しいもんですよという一般論でもあるのだが、もう少しきちんとした性科学が成人への教育に反映されてもいいのではないかとは思う。

 というか、それが難しいから文学があるという面もあるのだが、あまり、そうした面でよい文学は最近ないようでもある。どうなんかわからん歳になってきたが。