錯綜する文化史
田舎司祭の日記imageopera>>monobloc<< - 永久革命あるいは様式史?
http://d.hatena.ne.jp/kairiw/20050710
それにしても、ことは舞台に限る問題ではない。内野さんが注で引用されているリチャード・シェクナーのことばに、「ポストモダニズムが、かつてのモダニズム同様、完全に制度になったということです。モダニズムは破壊や新しさというものを基軸に成立しました。ポストモダニズムは再利用と再編成によって成立します」というのがある。
また、いま読んでいる本にあったパブロ・ピカソの言葉に、「芸術がひとたび公認され、誰にでも理解できるものになってしまうと、その時、新しいアカデミズムが生まれる」というのがあった。
じゃ、その連中、つまりいわゆる「モダニスト」がどこから来たか。
直接的にはボードレールなりクールベなりフローベール。19世紀フランスにおけるモデルニテの「発明」。
で、かのひとたちがなにをやったか。よくいわれることは「アカデミズム」への反逆。
つまり、反逆、反逆!
公認されたものを、つまらないと思うものが、それを茶化し、むにゃむにゃ考え、なにかを「発明」する。
そうして、その発明が、ある場合には、パラダイムの裂け目となり、それまでとは異なる領域を作って行く。
そしてまたその「新しい領域」はまたそのようなものとして、認知され、公認され、…新たな保守=メインストリームとなる。
で、私がある領域内のこうした力学=政治学が、あまりおもしろくないといったのは、それがそんなものだからだ。つまり、それはその領域(帰属先領域)を前提としている。(ちょっと指示代名詞が多すぎるか。でも説明、めんどくさい。あ、ここ重要。説明のめんどくささ。)
そして。つまり私がいいたいのは、これまたモダニズムのヴァリエーションだろうと。あるいはロマン主義。
「サブカルチャー」があるのではなく、むしろそれらはすべてモダンのヴァリエーションであるということ。
「サブカルチャー」の問題はその相似形である。アニメはもとよりマンガも、明らかに、芸術の歴史に帰属している。絵画はむろん、映画も、つねに参照されている。
「ドラゴンボール」の魔人ブー編のタッチを当時見ていて思ったのは、これはもう絵コンテのようだ、ということ。まああれはテレビ放映版アニメともろ連動して、というかそういう戦略として、売られていたと思われる。
個別の領域とでもいえばよいか、下位領域としてのジャンルは、たしかに独自に集中し、独自にその歴史の軌跡を描いて行く。それはたしかにたいへん面白いものだ。
だが、私はそこに状況的ではないある普遍的な尺度をどうしても持ち込んでしまう。より精確にいうなら、歴史的な尺度、もっというと、人類学的な尺度とでもいえばよいか。
手塚治虫に、私はたとえばロッセリーニの共振を見る。というか、どう考えても、手塚先生は、ネオリアリズムの嫡子である。むろん、それより前にはディズニーだが。
…例を出すときりがない。
一般史と個別領域のことをいいたいのだろうか。
錯綜しまくってるが、どれも重要そうだ