ザ・コミュニケーション

最近ぶくまhotentryを眺めてると
コミュニケーションに関する記事ばっかり出て来る


自分のぶくまタグ:コミュニケーションから
記事を引っ張ってくると……


ARTIFACT@ハテナ系 - 自分と違う価値観の人と対話できることが「コミュニケーションスキル」の高さ
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050820/conversation

コメントで書いたように、あの文章の発端は1980年代の「ネアカ」「ネクラ」ブームと繋げてみる思考だった。あのブームでは、明るい性格(社交的でもいい)がよしとされ、暗い性格はダメとされた。このブームがわからないと確かに偽地蔵さんが言うように唐突だと思われても不思議はない。


ここで使われている言葉を元に、当時の自分のブームに対する印象を説明する。「ネアカ」とは「社交的な振る舞いをする人」なのだが、「一般的な価値観を不変のものと信じて、様々な価値観が存在することを許容しない人」でもある。こうした人は一般的な価値観を信じている人からすれば、大変付き合いやすい。一見すると「コミュニケーションスキルが高い」と評価されそうだが、これはあくまで「共感能力」が高いだけである。


逆に「ネクラ」は「社交的な振る舞いをしない人」だが「様々な価値観が存在することを許容する人たち」であった。様々な価値観があるというのを知っているからこそ、他人に価値観を強要しない。しかし、ネアカは違う価値観の人間を排除しようとし、価値観の均一化を図ろうとする。「ネアカ」とは「同調圧力が強い人」なのだ。


demiさんの文章*1は、オタクやサブカルといったマイナー文化の一般化にともない、「価値観の多様化を許容する人」が増えたという前提のもとで書かれたと考えている。そういう人が増えたから、価値観で差別はされることはないということなのだろう。


モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - メタモヒカンと地べたと対話

http://mohican.g.hatena.ne.jp/summercontrail/20050818/com

こちらで、左近さんは

 毛づくろい的なうなずき合いや馴れ合いの技術(共感能力)と「コミュニケーションスキル」を一応概念として区別するならば、コミュニケーションスキルは自分と異なる価値観を持つ人との間でこそ重要となる概念でしょうね。


 また、多様な価値観が存在することを単に許容するだけでなく、対話を行えなければ、それはコミュニケーションスキルが高いとは呼ばないでしょう。

と指摘しているがごもっともで。

かのせさんの記事に触発された人も
はてな内部には多かったのかも知れない


コラム: 意見を述べるということ
http://iwatam-server.dyndns.org/column/81/

会話も対話も、目的は自分の言いたいことを相手に伝えることである。会話の場合は、自分の言いたいことが話し相手に伝われば目的は達せられる。伝わってなさそうなら、なぜそれが相手に伝わっていないのかを考え、どうすれば伝わるようになるかを考える。

対話も同様に、目的は不特定多数の人々に自分の言いたいことを伝えることである。しかし、この目的は達せられることはない。なぜなら、「不特定多数」の中にはいろんな人がいるからである。自分と同じことを考えている人なら一言言っただけでわかってもらえるが、自分の言うことを聞く気のない人にはいくら言ってもわかってもらえない。考えていることも前提も違うすべての人に一様に自分の言いたいことを伝えることは不可能なのである。

会話はキャッチボールである。相手のミットのある場所にボールを投げる。しかし、対話の場合は、相手のミットのある場所が人によって違う。だから、真ん中に(より正確には、真ん中だと思うところに)投げるしかない。相手は、自分でミットをボールの飛んできた方に動かさなくてはならない。そして、まったく違った方向にミットを構えている奴のことは無視する。

対話は会話より難しい。「真ん中」という、明確に定まっていない場所にボールを投げないといけないからである。そして、受け取る側もただミットを構えているだけではなく、飛んできた方向にミットを動かさないといけないからである。

これはiwatam先生の記事で
ブログとかにおける「意見」と「会話」の違いを説明している


ちなみにiwatam先生の過去記事にはこんなのも


コラム: コミュニティの崩壊
http://iwatam-server.dyndns.org/column/75/index.html

本当は家族というコミュニティで信頼を学ばねばならないのだが、たまたま崩壊家庭に生まれてこれを学び損ねると、だんだんこれを学ぶのが難しくなってくる。最近では学校でもあまりコミュニティに属することを強制しないし、地域の子供のコミュニティも存在しない。自主的に出ることのできるコミュニティでは、入ろうとして、挫折して、出てきてしまう。挫折したという事実だけが残る。

「信頼する」ということを知らないので、自分の周りは敵ばかりに思えてしまう。そして、敵だと思っているから、相手を信頼できない。相手は自分が敵だと思われていることはすぐわかるから、相手はその人を信頼しない。この繰り返しで、いつまでたっても相手を信頼することはない。

世の中の人はみな自分の敵だと思っている。そして、その中で自分はどううまく立ち回るかを常に考えている。うわべだけ取り繕って、世間に何とかして紛れ込もうとする。対人コミュニケーションの「スキル」を磨こうとする。コミュニケーションが「スキル」だと思っているうちは、いくらがんばっても無駄だ。コミュニケーションはスキルでもなんでもなく、相手を信頼して心を開くことである。相手が自分を信頼する前に、自分から相手を信頼することだ。

かのせさんが遠回しに煽られてる!!!!!1111


なぜなにぶろぐ:会話に困った時に使える合言葉って何?
http://blog.livedoor.jp/nazenani/archives/50054484.html


上の記事はまさに「スキル(技術)としてのコミュニケーション方法」の解説なのだが
「スキル」としてのコミュニケーションが必要なのは、上の記事にあるような
「初対面の人とやるようなちょっとした会話」の場において、であって
ガチで他人と信頼関係を築こうと思ったら「スキル」以上のものが必要になってくるんだろうなあ
ハートの問題!!とか言うとかなり古臭いけど

*1:引用者注:先日発売された「ユリイカ 2005年8月増刊号 総特集 オタクvsサブカル! 1991-2005ポップカルチャー全史」の記事「家政婦はオタクVSサブカル論争に旧制高校生の亡霊を見た!」のこと

「空気を読む」

上の記事と関連して
コミュニケーション作法の話でよく言われる「空気を読む/読まない」に関連した記事


loveless zero: 空気の読める社会(1)
http://www5.big.or.jp/~seraph/mt/000108.html

このような多層構造で見てみると、「空気」は、「コンテクスト」が意味するところにかなり近いが、状況よりのコンテクストを主な対象としている。「多様な価値観」の参加者による「ローコンテクスト」なコミュニケーション空間と言っても、その多様さ・コンテクストが想定するレイヤと「空気」は必ずしも矛盾するものではない。


では、一体何故、今の日本では「空気を読む」ことがこれほど重視されるのか。1つには、昨今様々なハラスメントが話題になっているように、人の感情を害すること、気分を悪くする事を極端に避けようとすることがある。しばしば聞かれる「人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」というのは、逆に言えば、「人に迷惑をかけることは避けたい」ということである。総じて、人間関係が脆くなっているということなのかもしれない。そのような中で、「価値観の多様化」ということになると、共有しているコンテクスト(比較的静的なコンテクスト)がだんだん減ってくる訳だから、会話の流れや相手の感情の変化を素早く読み取って臨機応変に対応していかなければ、まさに私たちが避けたがっている、人の感情を害する状況に、すぐに陥ってしまう。伝統的な「あうんの呼吸」はもはや死語なのかもしれないが、多くのコミュニケーションシーンでは依然として行間の大きい場合が多く、「静的な文化のコンテクスト」が相対的に小さくなった分、「動的な状況のコンテクスト」を読む力がより要求されてくるのである。


「空気を読む」力とはすなわち、価値観が多様化しつつある中で、あくまで人を不快にさせることなくスムースにコミュニケーションを行うためのコンピテンシーである、と言える。


まなざしの快楽 - なぜ「空気が読めないことが最も嫌われる」のか?
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050825#p1

内部はコミュニケーションにより、作動するわけであるが、かならずしも対面している必要はない。特に最近はマスメディアの影響が多い。あゆファンというコンテクストを共有するためには、あゆにあう必要がないだけでなく、あゆファンにあう必要もない。マスメディアを通して、あゆファンがいるという情報のみで強い内部への帰属意識をもつことができる。


ボクはこのような状態を「ハニカムハーツ(蜂の巣状化するこころたち)」*2と呼んだ。この場合、家族、学校などの社会的、物理的に近接した周りは、外部となる。蜂の巣の中一人で、マスメディアの向こうの見知らぬ人々と直接的なコミュニケーションなく、内部が作動し、コンテクスト、すなわち価値観がつくられていく。これはオタク化であるとともに、引きこもり、ニートなどは、より強く社会的なコンテクストから離脱した人々であるといえるだろう。


しかし完全に社会から、現前の他者から遮断されることなどできない。親からの注意、あるいは恋愛などで、外部と遭遇したとき、ハニカム内のコンテクストが、社会的なコンテクストと大きく遊離しているときには、闘争がおこる。

しかし最近ではネットの発達により、ハニカム化していても、外部とコミュニケーションすることが容易になった。そのために従来「ハニカム化」していた内部を繋ぎ、ネット上で内部を作動させることが可能になる。たとえばその顕著な例が、「電車男」である。*3「電車男」の感動とは、内部にいることの共有である。そしてこの内部を作動させているのは、エルメスを女神とすること、すなわち外部に疎外し超越させることである。「転倒」において神性は捏造される。しかしエルメスは一つのメタファーであるといえる。それは女性全般を意味し、さらには社会そのものを指す。


あるいは、ネット上に氾濫するヘイトスピーチも同様な構造をもつと言える。ネット上などのヘイトスピーチは、そこに差別する外部を想定することを意味する。それによって、場の緊張をやわらげ、発話者たちが内部にいることを強調する。そしてこのような「転倒」においてたとえば「朝鮮人は〜だ。」などの神話が捏造される。


そもそもネット上はコミュニケーション不全の場である。このような場において、多くにおいて社会的な他者(有名人など)を外部として攻撃し、場の緊張を緩和し、内部として作動させる。繋がりを強化する。そしてネット上はうわさ話(神話)の宝庫である。

id:pikarrrさんの記事は要約困難なので、リンク先から全文を読んで欲しいんですが
社会学的な見地から「空気を読む」ことの意味を解説されています


しかし、いくら「小さな内部」で「人間」たるための「小さな闘争」を皆が行っているとしても
それが常識化した世界ってのはそれはそれで嫌だなあ(感覚的に)
なんか、上っ面だけで全然平和じゃねーじゃんって感じがするんですけど


もじれの日々 - 「空気を読む」
http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20050820

「(場の)空気を読む/読めない」という言い方が流行っているんだって。まったく、いやな言葉ほど流行るものだ。この言葉は、まともに取り組もうとするなら「いったいど、ど、どうしたら…(空気を読めるようになるのか)」という隘路にしか導かれず、また逆に戦略的に利用する場合は大勢=体制による「異質なもの」への抑圧にしか至らない。どうしても使いたいのならばせいぜい、「何て場の空気の読めないパソコンだ!」(パソコンが急にフリーズした時に)、あるいは「何て場の空気の読めない霊だ!」(金縛りにあった時に)、などの形でしか使い道のない言葉だろう。この種の言葉は他にもある。「生きる力」、「人間力」、「抵抗勢力」などもそうだ。そうした言葉に共通した特徴は、①曖昧である、②規範的・価値的尺度性を含んでいる、言い換えれば人間の評価・格付けに用いられる、③様々な文脈で用いることができる、などの点にある。これらの言葉は、恣意的な基準で他者を排除しようとする際に用いられやすいためタチが悪いにも関わらず、ある種の便利さをはらんでいるのでいっそう普及・増殖しがちである。個人的にお勧めの対策は、「そんなもん知るか、ケッ」という態度を貫くことです。


でもじゃあお前が持ち出す「対人能力」はどうなんだとつっこまれるとしたら、それは価値的に振り回すためにではなく、その言葉とがっぷり四つに組んで胸倉つかんで引きずり回すために、あえて注目し解明する必要があるのだというのが私の答えだ。分析概念だ、と言ってもいい。ただ、次の本で実際にどれくらい相手の首根っこを押さえられているかというと、はなはだ自信がないけれど。

「空気を読む」という言葉自体が、その曖昧さ故に
「闘争」の道具にされる可能性についての指摘


参考:空気の読めない男を教育する - [出会い]All About