菊地成孔さんの語る「インターネット病」

via.strange - アナロジーとしてのインターネット病より


楽家菊地成孔さんが
インターネットの病理について語られていた


エスロピII@暫定退避(9月23日コメント欄)
http://d.hatena.ne.jp/prse/20050923#c

# ピンポイント 『メガネ男子見たけど、黒のグラサンで目ん玉全く見えないの菊地さんだけじゃない?それにしても菊地さんの反応があれガチだったらかなり病的だ。』


# prse 『返答に困るコメントですね!菊地さんはいつだってガチでしょ。』


# ピンポイント 『まあDJLG(笑)ってことで(謎)』


# prse 『僕はあの日のプレイを聴いて、上原多香子「sweet dreams」買いましたよ。約3年前の話。』


# 菊地ですが 『
 どこが病的なんですか?』


# そうそう。本人です。 『
 証明のしようがないですけれども。どうか信じてください。というわけで、本当にマジで(ガチで?)まったく理解できないので、出来れば僕にも解るようにここで教えて頂けると幸いです。どこが病的なのですか?肉体ですか?精神でしょうか?僕は多少ならずとも自分(厳密には誰もが)が心身共に病的だと自覚しておりますが、それにしてもあの件は久しぶりで白黒のハッキリしたすがすがしい件だと自覚していたのですが。』


# prse 『要するに、何か自分の意にそぐわないことがあっても、スルーしたりなあなあで済ませたりする人が多い現代社会においては、菊地さんみたく白黒キッチリつけようとする態度は突出して見えるので、それを「病的」と称してるんじゃないか、と僕は解釈しました。僕だったら「病的」という言葉は使いませんけどね。』


# ... 『言葉があまりにも軽率、幼稚すぎました。
菊地さんをはじめ気を悪くされた方に対する言葉がみつかりません。すみませんでした。
白黒キッチリつけようとする態度というのは良いと思うんです。でも、今回の件についてだけはそこまでする必要は全くないんじゃないかと私は思いました。できあがって来たメガネ男子本を見て、菊地さんの心が不安定になられたであろうこと。そこから写真等を削除してくれという行為に至った経緯を想像して、私は率直に菊地さんは大変だなあと思いました。あの程度だったら堂々としていればいいと。(私は率直にあの程度と思いましたが、仮に私自身が有名人だとして悪口を書かれるということの想像ができないからかもしれません)
それらを誤解を与えてしまうような一言で済ませてしまいました。
誤解では済まないですね。明らかに菊地さんに対する攻撃でした。
あまりにも幼稚で言葉が貧困な私をお許しください。

菊地さんの今後のご活躍を期待しています。
菊地さんの音楽、文章を常に楽しみにしてる一人として。』


# prse 『返答には困ったけど、気を悪くしたりはしませんでしたよー僕的には。』


# 菊地です 『
 僕も気は悪くありませんが腰が抜けるほど驚きました。「あの程度なら別にスルーすべきでは?」「堂々としておくべきでは?」とは(汗)。ひょっとして、僕が「言われたことに腹を立てて撤退した」とお考えですか?だとしたら病的とは言わないまでも、少々狭量だと思います。僕はそんなことはしません。僕が撤退したのは「名誉でもあるかの如き物言いで物(資料)をねだっておきながら(資料を用意し、送付したのは僕の事務所です)、内容に関して事前に何も言わなかった」事に対してです。どっかの同人誌が勝手に写真使って何を言っても、文句は言いません。こちらから進んで資料を提供している音楽誌に何を書かれても撤退などするわけがありません。

 あと、「病的」という語句に反応しているのでありませんのでお間違えなきよう。「○○病だ」と言われたらそれは差別用語ですが「病的」というのは具体性に欠く比喩的表現です。どこがどう病的なのか知りたかっただけです。この一件を見て「堂々としていればいい(堂々と泣き寝入りする?ということ?)」というのは正にインターネット病的だと思います。また「心が不安定になられたであろうこと」と仰いますが、そんな覚えはありません。編集部の幼稚なやり方に憤激しただけです。ポイントが最初から最後までズレまくりだと思います。』


# そうそう 『

 紛いなりにも「ピンポイント」と名乗っているのだから、ポイントはしっかりしてくださいよ。と書くのをうっかり忘れていました。

 「あの程度のこと」と仰いますが、どこを指して「あの程度」というのでしょうか?いろいろな嗜好の方が集まり、座談会をされて、そのうちのお一方が特定の誰か(この場合、僕になりますが)に否定的な発言をする。という事自体が抗議に値するはずもありません。そんな事は繰り返し申し上げているわけです。

 僕が思うに、ピンポイントさんは「これがネットの中だったら」という視点で「あの程度のことには堂々としていればいい」と仰ったと思います。また、ピロスエ君も『要するに、何か自分の意にそぐわないことがあっても、スルーしたりなあなあで済ませたりする人が多い現代社会においては、菊地さんみたく白黒キッチリつけようとする態度は突出して見えるので』と言っていますが、的はずれも甚だしいです。あの本は、ミクシィから事が始まろうと出版される「書籍」であって、ネット内での出来事ではないのです。ネット内での出来事を越える盛り上がりがあって「書籍化」したわけでしょう?メディアが違うわけです。「何か自分の意にそぐわないことがあっても、スルーしたりなあなあで済ませたりする人が多い現代社会」とありますが、この「現代社会」の部分は、単に「ネット社会」だと思います。単なる「ネット社会」を「現代社会」にまで(思わず)拡大してしまう事。こそ、僕が書いた「インターネット病」です。

 僕は「CD株券」の中で、鬼塚ちひろさんをボロカスに書き、「あいのり」という番組を「反吐が出るほど嫌い」と書きました。それが書籍化されて、本の体裁上、ジャケット写真が必要になってきます。これは、こちら側がレコード会社に頼んで借りないといけません。実際われわれ(著者である菊地、出版元であるぴあ)はレコード会社に本の原稿を見せた上でジャケットの貸し出しを御願いし、結果として双方とも貸してくれませんでした。この二者だけではありません。実に半数近くのアーティストのジャケットは転載不可になっています。それこそ「あの程度」と思われる記述であろうと。しかし、あらゆる写真には利益と権利が包含されますので当然です。僕はその事が異常だとか病的だとか一切思いません(あの本をお買いあげ頂いた方は「そうか、この内容でジャケット出さない会社と、この内容でジャケット出す会社があるんだな」という楽しみ方もしてみてください)。

 さて、エスロピ君の言葉を借りれば、もしわれわれがダマテン(麻雀用語。隠したまま。しらばっくれて。の意)で「御社のアーティスト様が年間36枚のレビューに選ばれました。つきましては是非ジャケットをお借りしたく」と、本の内容を見せずにジャケットを取り寄せ、掲載したとします。そしたら「現代社会」では「何か自分の意にそぐわないことがあっても、スルーしたりなあなあで済ませたり」してくれるのでしょうか?億に一つもあり得ません。場合によっては訴訟されかねません(というより、ダマテンで行こうとしても広報が「まず本の内容を見せてください」と言うに決まっています。ですから今回、こうしたチェックをしないで「すっかり良い気分で」信用し、ノー・チェックで資料を出してしまった僕とマネージャーは大いに反省し、同時に憤激しております)。僕は、インターネットの中だけで生きているわけでもないし、また、インターネットが世界の中心で、他の世界がそのアリバイのように散らばっているわけでもありません。インターネットなど、情報の流通装置である以外は、単なる無法地帯の趣味ではないですか。

  事の次第もロクに読解せず「悪口」に対してのみ「あれは大したことがない」「超然とすべきだ」とひたすら乖離を決め込もうとする傾向(屈辱に対する手だてが罵倒か無視しかない)、偏ったフェティシズムのアーカイヴに過ぎない事を「名鑑」と呼び、エンサイクロペディアックな仕事でもしたかのように称すること、権利や礼儀に関して社会的(「大人の世界」的)に完全に失調したまま「大丈夫じゃん」と甘え果てること。抗議を受けると逆上したようにピント外れに狼狽すること。

 これらは総て、インターネットというメディアの中の、ゆるゆるな倫理や、かなりの限界性に囲われた「戦い/コミュニュケーション」の在り方を精神生活全般の基盤に(思わず)置いてしまう、(アナロジーとしての)インターネット病の症状だと僕は思っています。もちろん人類は誰しも病を抱えていますから、病症Aの患者から見れば病症Bの患者は狂人のように映るでしょう。僕が今回とった行動が、ミクシィ発の萌え本という文化から見て「病的」に見えるのだとしたら、なかなか誇らしいことだなと思いました。「堂々としていればいい」と仰いますが、僕は一度たりとも「堂々としていなかった」つもりはありません。守りに回ろうと思えば、いくらでも回れるわけです。あなたは御自分が「堂々としている」と思いますか?如何ですか?』


# paranmaum 『横やりレスですいません。結局は「商業倫理」に反した行いを相手編集部がやっちゃった、という。
 内容はともかくそれに対して菊地さん側は憤慨しているわけで。どの業界、どの業種でも(法的には全く問題ないにせよ)やっちゃいけない「商業倫理/業界倫理」ってあるわけで。実際、「ce mois」での初めの記載では

>>わざわざ偉い人に呼び出されてシメられてしまいました(笑)。怖いわー(笑)。メガネ男子愛好女子の皆様すみませんでした(笑)。

 という、殊更問題化しようという雰囲気も感じられない(まさに「超然とした」)コメントだったわけです。
 結局翌日に、撤退という表明があるわけですが、この間1日のタイムラグを鑑みるに、やはり菊地さんの個人的な気持ちよりも、菊地サイドのスタッフの商業倫理観と、かなり外れた仕事をしてしまった当該書籍編集部との問題かと思われます。そう言った事に関しては、タレントさん本人よりスタッフ/チームは敏感ですから。
 ほんと、「インターネットやらmixi いう前に実業での倫理とおせやぁ!」てのが現場のスタッフさんの気持ちだと思います。』


# まったく 『
 その通りです。ミクシィ発の萌え本。というのは、今後のこの国での商品価値が高いと思われますから、リスク計算をしたたかにするならば、もめ事など起こさぬ方がクレバーである事は馬鹿でも解ります。しかし、僕と僕のスタッフは絶対にあれを許すわけにはいきませんでしたし、加担するのも嫌でした。写真は記名のキャメラマンさんによる、エスクァイア誌に帰属するものです。グチャグチャ勘違いな非難を浴びようとも堂々と撤退しようと言うのが我々の結論です。

 「あの程度のことには堂々としてればよい」という論調は(今回、サイン会などで「あれ最高。断固支持します」という声と「あんなすることないじゃん」という件とまっぷたつに割れていましたが、これは前述の「病症」のあるなし。という事に帰結すると思います)一見、エレガントな無視のようではありますが、その実「インターネット」という装置の構造/限界の中で「屈辱は無視する以外無い」という方法を強いられているだけ。つまり、機械に自分の誇りの守り方を決められている事に気が付いていない。という最悪の病症だと僕は思っています。というのは、抗議した相手である編集部の方さえも「あれぐらいなら大丈夫と思った」「自分たちなりに愛のある行為だと思った」「すみません対談の部分を削除しますので撤退はしないで下さい」と、インターネット病丸出しで、驚いたわけです。

 今後こうして「屈辱を受けたら堂々と超然と無視。自分ならそうするね」というウソ(内心では「心が不安定」になっている筈ですから)を自分につきながら抑圧された怨念を無限に醸成する人々の倫理観や社会観が実際の社会を覆うのだなあ。と思います。正面切って抗議すると、さっきまで調子コイてチョロチョロ引っ掻いていた奴が崩落して土下座(OTL)します。まるで自分(達)が旧世代のヤクザにでもなった気分ですが(苦笑)、もうそれで結構だ。と思ってます。まあ時代の流れですね。』

倫理意識と言う名前の甘え
文化と言う名前の甘え
システム(アーキテクチャ)に縛られたネットコミュニティの掟と作法
(経済の絡む)現実世界と(経済の絡まない)バーチャルのギャップ


のまネコとかで大騒ぎしてるチャンネルボーイの人達にも読ませたい名文だなあ
世の中そんなに甘くないのよね


メガネ男子

メガネ男子

CDは株券ではない

CDは株券ではない