「萌え萌えアニメ日記(2005/07) - ネタ消費社会とアニメ」への反論

本当はこういうエントリーはどっかの自意識過剰野郎にまかせるべきかもしれませんが
ウェブの話題になるので、ぼくが書いてみます
読みづらかったらごめんなさい


萌え萌えアニメ日記(2005/07) - ネタ消費社会とアニメ
http://www.asahi-net.or.jp/~RG8S-SZK/hobby/NIKKI/2005/200507.html#2763_3

■ネットによってネタ(無価値)化されるアニメ
作り手(プロデューサーから現場のスタッフ、末端のアニメーターまで)にとって、ひとつのアニメは確かにリアル(ネットの外)での活動の結果生み出された、実体を持った生産物であり、それが「ネタ」である余地はどこにもない。
しかし、それがネットという貪欲で巨大な胃袋の中に放り込まれた時、フィルムという実体は直ちに消失し、日々消費されるネタの一つになってしまう。
■ネット上の言説に振り回されることの危険性
リアル(現実)の反映であるかのように見えながら、リアルに対して逆立ちした=実体のない=ネタしか存在しえない本質をもったネット上の言説に左右されることのばかばかしさと危険性を、作り手の側は自覚した方が良い。
一昔前の、たとえばアニメ誌などに投稿してくる「ファン」の感想や意見と、ネット上で日々生成するネタ(ここを含めて)を同質のものとして扱ってはならないと思う。
アニメの作り手の側が、ネタの浸食を無自覚に許しているなら、アニメそのものの将来が失われてしまうことになりかねない。ネット(ネタ)の影響を完全に遮断することは不可能としても、作り手の側は、常に自分の作りたいものは何かということを問い続け、ネタに惑わされてその核心を見失わないようにしてほしいと思う。

まず、これを書かれたrinamoさんが
上記文章における「ネタ」という単語の定義を
明確に解説されていないので、憶測メソッドを使ってしまうのですけども
ここで言う「ネタ」というのはつまり「話のネタ」のことであり
ネット上でのコミュニケーションの為に消費されてしまうアニメ=コンテンツ、の意でしょう
ん?どこかで聞いた様な話だ(わらい


オタク同士がネット上でコミュニケーションを行うときに消費される「ネタ」とは
2ちゃんねる半角二次元板で、張り付けられた萌え画像について
「○○たん(;´Д`)ハァハァ」とか皆で評価をして、同好の士の間でのコミュニケーションを取ることであり
そのとき消費された萌え画像そのものの技術であるとか中身であるとかは
基本的に「語る価値のないこと」として捨象されてしまう*1
コミュニケーションの為に用意されたコンテンツそれ自体の価値を問う事は
必ずしも(コンテンツを通じた)コミュニケーション行為には必要無いからです


インターネットの普及によって、こうしたコミュニケーション行為が
物凄く頻繁に、しかも可視化された状態で行われることになり
リアル世界にも様々な影響を及ぼしているのは事実
特に以前は限定的なコミュニティなどでしかこうしたコミュニケーションを
とることのできなかったオタクが、ネットにその場を移行することによって
容易に「同好の士」をみつけ、自分達の好きな(コミュニケーションのきっかけとなる)
「萌える」コンテンツに投資することで
リアルすら支配する一大産業を作り出している


…とここまでは特に反論することもないのですけど
上記したような事は、なにも
ネット上でだけ」行われているわけではないでしょう
現実世界でもこうしたコミュニケーションは昔からありましたし
それによって消費されるコンテンツもありましたよ


たとえば
オタクが萌え系CGサイトで「○○たん萌え〜」といいつつ
自分と同じ嗜好の持ち主に出会い、コミュニケーションを取ることと
とっとこハム太郎」が好きな女の子が「ハムちゃん超かわE!」といいつつ
携帯メールで同じハム太郎ファンの友達とコミュニケーションを取ることに
どんな違いがあるのか、ぼくには分からないですし
なぜ「アニメ誌などに投稿してくる「ファン」の感想や意見と、ネット上で日々生成するネタ(ここを含めて)を同質のものとして扱ってはならないと思う」と
言えてしまうのかも、全然分かりません


消費の対照となるのが「萌え画像」だろうと「ハム太郎」だろうと
それらがコミュニケーション行為の「ネタ」にされている、という点では違いはないですし
コンテンツそれ自体の価値を必ずしも問われない、という点も共通してます
ただ、上記したように
オタク文化の場合、ネットをやる人=オタクと
言われた時期があるぐらい、ネット文化と相性が良かったために
結果的にそのようなコミュニケーションが目だって見られるというだけでしょう
そしてもちろん、そこをマーケットとして狙う産業も出現する


あと、上で「リアルすら支配する」と書きましたけど
リアル(現実)に影響を及ぼしている時点で、既にそれは
リアルの一部に組み込まれている、といってもいいんじゃないでしょうか
というか、ネットがリアルの一部に組み込まれていると言ってもいいかな


strange - ずるい!また新しいものが終わってる!今度は2ちゃんねる
http://d.hatena.ne.jp/strange/20050604#p1

「ブログ終焉」論争でも、「リアル」と言う言葉がかなり使われています。私には、この反応こそが、ブログがリアルに根ざしたコミュニティツールへ変貌を遂げようとしていることへの、リアルとサイバーを切り分けたいネットワーカーたちの反発、不安の表れではないかと思えるのです。

こういう話もなんか違うよなーってかんじで。リアルとサイバーを切り分けたいって人もいるだろうけどさ。「(サイバーにある)ブログがリアルに根ざしたコミュニティツールへ変貌」って発想がやっぱり違ってて。

つまり、「サイバー」はすでに「リアル」の大きな部分を構成するものであって、サイバーとリアルを分ける言説自体がもう何だかなあって感じ。ようするにサイバーでやっていること、起きていることはそのまんまリアルの一部でしかないわけでね。むしろたまたまサイバーでやっているに過ぎないと考えた方が適切かと(サイバーの便利な特質のおかげで)。


ネットのお陰で、人間同士のコミュニケーション行為が加速化されたことが原因で
rinamoさんが言われているような問題が顕在化してるのは、まあその通りかも知れませんけど
それをして「インターネットはからっぽの洞窟」だと言ってしまうのは
単にネットに変な幻想を見ている*2ことの裏返しとしか思えません

*1:この場合、その「萌え画像」が本当に絵として素晴らしいかどうかというのは全く別問題で、萌え絵の存在そのものを否定しているわけではないので念のため

*2:というか、認識の仕方が間違っている