ゲームと物語

id:tdaidoujiさんによる面白議論
tdaidoujiさんのオタク文化論はどれも面白くて、読み応えがある


ハー○イ○ニー観察日記 - ゲームと物語
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20050623#p1

  • Q3:では、なぜそれが「物語」としてルールとは別と見なされるのか。

A3:ビデオゲームの、とりわけRPGなどの性質によるもの。

ビデオゲームは、いくつかのパーティーゲームやレースゲーム等を除き、複数のプレイヤーが共通のルールに従って勝敗を争う形式ではなく、一人でプレイするスタイルとなる。ここでのRPGなどの「物語」は、プレイヤーにとってクリエイターの都合で出された後出しルール。最初に「竜王を倒せ」とだけ目標を与えられただけなのに、後から一方的に「竜王を倒すには○○が必要」「○○を手に入れるには△△を倒せ」と言われる。後出しルールである以上、心情的に納得のいかない流れだとアンフェアだと感じる。「ラスボスはハー○イ○ニーたんだ」「真のラスボスは更科修一郎たんだ」「実は真の真の敵は加野瀬未友たんだ」「実は真の真の真のラスボスは東浩紀たん」「実は真の真の真の真のラスボスは『ファウスト』の太田編集長たん」「いやいや実は……」って、最初に本当のラスボス出せよ! うぜえよ! やってられっかー!(何かを激しく勘違いしている上に無駄な八つ当たり)

…てな具合に、ゲーム製作者側の望む読み筋とプレイヤー側の欲求が噛み合わないのが「ゲームと物語」という言い方における「物語」だろう。それはよく見れば、後から提出されたルールにより勝利条件を変更され、無駄足を踏まされたことへの怒りであることがわかる。

  • Q9:こないだの「神話と物語の違い」id:tdaidouji:20050606#p1って何よ。

A9:「ゲームと物語」が未分化だったころの作品を眺める際、今現在から見て「シナリオ」「物語」として抽出しうるように見える要素のことは「神話」と呼ぶのが一番それっぽいだろうと。

こないだの論文*1のテーマと重ねると、「プレイヤーが主人公となって物語を作る」「プレイヤーキャラクター=物語の主人公」が通用していた時代というのはゲームシステム(=物理法則)や美術(=自然科学)などとシナリオ(神話)が渾然一体となっていた頃のことで、「プレイヤーキャラクターと物語の主人公は別」てのはゲームが巨大化しシステム、キャラデザ、背景、音楽といった各要素が専門に分業されていく中で、システムと登場キャラクターとの切断がなされてゲーム内世界が「近代」化されてしまった後の話だと思えばいい。近代化とは「キャラクター」の発見のことで、これはビデオゲームの表現技術の進歩と共同歩調を歩んでいて、本来なら将棋の歩のひとつに過ぎなかったコマに名前を与えバックストーリーを与え人格を与えていく(シミュレーションRPGなどは正にその通りのことを行っているが)歴史であり、エロゲーギャルゲーていうキワモノ扱いの作品のユーザーがビデオゲームというジャンルの先端を気取れたのは「表現の進歩=コマのキャラクター化」の大きな流れを脳内で先取りしたという、ちょいとアレな自負による。

おいといて、プレイヤーが急増し、かつ同一/類似システムの利用が継続的に行われノウハウが蓄積され、巨大に複雑に発展してしまったゲームジャンルにおいては、もはやクリエイターの要望にある程度まで沿った形でゲームをプレイしてもゲーム世界を網羅的に体験することは不可能に近い。一部のやりこみマニア層/金と暇と実力のある特権階級のみはゲーム世界を体験し体現することを許されるかもしれない。けれども、肥大化したゲーム世界(それを背後で成立させているゲーム業界)は当然ながら特権階級(コアゲーマー)だけでは成立しない。農奴貧民被差別階級(ライトユーザー)を動員し徴税するために神話の再現としての宗教および歴史(としての物語)が呼び込まれる。一方で近代化(キャラクター化)は推し進められ、ついに神話を語ることが不可能になった、「神は死んだ」(システムと一体化したPCのシナリオはもう作れない、PCは傍観者に過ぎない)宣言がなされた*2のが「雫」。キャラクターゲーム(植民地)を取り込みながら巨大RPG(宗教と歴史)とアクションゲーム(徴兵/義務教育)を中心として成立した帝国主義の時代がPS/サターン時代で19世紀から第1次大戦、「ワイマールってダサイよな」(違)を皮切りにPS2/DCの時代が1930年代〜第2次世界大戦、どっちが枢軸かは言うまでもないですが、PCエロゲー陣営は無神論の立場により<人民に開かれた実用的で必然性のあるエロ>を合言葉に勢力を伸ばした共産圏、しかしエロの実用性と必然性が根本的に背理する上に実際の制度(システム)は前近代的制度が幅をきかせ(アリスソフトやエルフ)、空想的一国社会主義(圧倒的な楽園とか何とか)を唱えた人は後に亡命して政権批判し、それを支持するはやっぱり東大のセンセにモラトリアムな学生さん、と。


ハー○イ○ニー観察日記 ゲームと物語 その2
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20050704#p1

さて、ボードの戦争SLGはその性格上、戦史研究的な要素が密接に絡んできます。現実にあった「長篠の戦い」を再現するのに鉄砲三段撃ちを言い出したのでは訳が判りません。ですから、戦史研究書から引っ張ってきて、あるいは自分で史料研究して、実際の戦争の再現を目指さなければなりませんが、当然ながら歴史なんてのは議論が分かれるもので、戦車の性能ひとつ取っても真実は一つこの通りなんてのはありえません。ゲームを作る際も当然にどの歴史観を採用するのかという話になってきます。「ヒストリカル・ノート」や「デザイナーズ・ノート」は、どの歴史観をどのような判断で採用したかという話に、必然的になるでしょう。

このように考えた場合、「ルールに付加され、ルールをわかりやすくする意味」としての物語は、おそらくは「現実をどのような視点で切り取ってみせるか」を指し示す、「リアリティ」との兼ね合いの意味をなす、もしくはゲームにおける「リアリティ」そのものである、となります。

しかし、このような「リアリティ」を示すための物語というのは、コンシューマーのゲームではあまり強調されないように見えます。元来がアクションゲームを基本としているためか、どのジャンルでもデザインコンセプトがゲーム内で体感的に理解されるゲームを良作と見なしている気がします。(最近は容量が余ってるおかげか、チュートリアルが豊富になってきましたけど)


ハー○イ○ニー観察日記 - ゲーム評論で使えそうなものを探してみた
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20050625#p2

ゲームはその性質上、閉じた世界観を提示せざるをえない。それは当然ながら情報伝達メディアにおいては致命的によろしくない。どこまで頑張っても「所詮、現実の俺らには関係のない話」にしかならないからだ。例えばガンダムの世界観なんてのは、当初は現実の延長上の未来を舞台にしたSFていう枠組みだったけど、今は単なる異世界ファンタジーだ。そういうふうにかなり複雑で体系的な情報を実生活と別枠で隔離する感覚(要するにマニアックなコレクションの対象でしかない、てこと)をゲームメディアは間接的に支援してきてる。「残虐なシーンが多いゲームに影響を受けて現実世界で凶悪犯罪を犯す奴なんていない。ゲームは娯楽だと割り切ってるのだから」ということね。「バーチャル明治」と呼ばれてしまった『るろうに剣心』を読んで、「剣心のような人たちの想いが現在の我々の生活を作り上げているのだ」とまで言える人がどれほどいるか。むしろ、そうした直球のメッセージを受け取らないためにこそ、閉じた世界観を見出すことにゲームプレイヤーの意識は向けられるのではないか。