論理と反知性

いや、本当に凄いわ
さやわかさん天才!!


ニーツオルグ - 外部の情報 #113
http://www.neats.org/

邦楽にラップが本格的に上陸したのはつい最近のように思える。資料がないので記憶を頼りにすれば、つい5,6年前のことではないだろうか。

に代表されるような、明らかに間違った「事実」が「推測」の形として書いてある時点でその人の書いたには、ほぼ信憑性がないと思う。「ほぼ」というのは、推測によってのみ構成される主張があってはならないというわけではない、という意味だが、しかし、ここで僕が論じている「彼ら」は、あくまで事実に対する検証を基に自分は正しさを主張しているという語り方をする人たちのことだ。


彼らがやっていることは、実際には、印象を語っているだけだ。彼らは平気で「資料がない」「体系的な論考が見あたらなかった」などと言うが、ここで「知らないということ自体」を責めてもいいだろう。だが僕はそれは別にいい。知らないものを知らないままで論じるという形はあると思う。だが、そのときは、自分が知らないということを自覚しているか、または、自分の主張が印象にすぎないと思っているべきである。資料がないということだけを書いて、よく考察せずに誤った「事実」や「正しさ」を説いてはならない。事実に基づいて何かを検証し、主張を行おうとするような人間であるなら、遅くとも大学生ぐらいの年齢までには、誰でもそういうことを学んでいると思うのだが、「彼ら」にはそういう考え方がない。彼らは一体どこから来たのか、僕には全く分からない。そして、結局よく考えないのだったら、彼らは資料が目の前にあったって同じ過ちをするだろう。彼らが日本語ラップに、マスコミに、海外諸国に、天皇制に、教育に、日本政府に、著作権に、家族に、インターネットに、そのほか諸々に対してどんな主張しようと僕は問わないが、正当性というのは論理によって築かれるものだ。最初からあるように錯覚して、途中を省いて結論だけを語ったり、結論に合わせて途中を作ったりしていいというものではない。そんなものに対しては、賛同も批判もできやしない。


そして、彼らが何か正しい主張を成したと考えているとき、彼らの主張をおかしなものだと考える人たちは、じっと黙って過ごすか、大きな問題にならないレベルで言及することだけが美徳とされるなんて、相互理解のための仕組みを進化させた結果に訪れる状況としては実に皮肉なものだと僕は感じる。そこには、我々はお互いに断絶したがっており、共通の理解になんか達しないという事実だけが残されているのに、平然と総体としての社会を感じたり、相手の話をよく読まずに同じく印象に基づいて賛同や批判のコメントを行ったりできるというのは全く不思議である。

メモ帳の性質上、引用を行ってしまってしまいましたが
全文必読の内容なので、皆読むように


こういう考え方ってアカデミズムそのものだよなあ
自分で実践出来ているとは到底思えないけど
いつかこんな事が書けるようになりたい


彼らは一体どこから来たのか」の部分に関しては
bewaadさんの反知性主義についての考察も関連しているように思えた


bewaad institute@kasumigaseki(2005-04-12) - 反知性主義についてのいい加減な考察
http://bewaad.com/20050412.html#p01

ところで、「専門家」の専門性に対する敬意だとか、信頼というものがなくなり、一般ピープルは一般であるがゆえ〜専門性がないがゆえにエライという類の確信(笑)はいつ頃から形成されたのでしょうかね。
私は、戦後日本社会においては、いわゆる「プロ市民」のレトリックからそれが発展してきたような気がしますが、その論理をネット系の論客を自認する人たちが自明のものとして使っているのには、結構な違和感を感じてたりします。

結論を先に書いておきます。読む価値なしとお考えならばすっ飛ばしていただきたく。

  • 1.社会不安が感じられるご時世では反知性主義が顕在化します。感じられないご時世でも、潜在化しているだけで存在していないわけではありません。遍在しているのです。
  • 2.なぜなら、知性とは突き詰めれば、直感に反する発見ほど付加価値が高いので、発展すればするほど少数派にならざるを得ないからです。
  • 3.高付加価値な知性は金や権力に直結しますが、社会不安が少なければそうした支配構造を多数派は許容します。でも、社会不安が昂じてくればひっくり返ります。
  • 4.知性の最先端は時とともに直感との乖離が大きくなっていきますから、反知性主義を封じ込めるには、知性側における社会不安を押さえ込む不断の努力が必要です。


第1点については、古いところではペロポンネソス戦争後のポリス社会の斜陽化に伴うデマゴーグが、世界的影響力の大きいところでは、14世紀以降のペスト流行による農村疲弊や十字軍・百年戦争等による封建制・荘園制の空洞化、キリスト教会の混乱(教皇のバビロン捕囚ですとか、シスマですとか)、中世温暖期から小氷期への気候変動に伴う収穫減等々による中世の終焉と並行する宗教改革が代表例でしょう。


遍在などと言うからには思いつくまま他の例を探しますと、日本ですと武家支配の台頭以後における浄土宗系統の「南無阿弥陀仏」や日蓮宗の「南無妙法蓮華経」が顕著な例でしょうし、昭和恐慌を受けての全体主義運動もこの観点からは同じカテゴリに入れていいでしょう。


アメリカではホーフスタッター「アメリカの反知性主義」というそのものズバリの著作がありますが(でも実はwebmasterは未読です。ごめんなさい)、最近の著しい保守化に伴う反知性主義(プロライフ論はともかく、反進化論ですからねぇ)も、70年代のヴェトナム戦争敗北・スタグフレーションから始まり、9.11を経て昨年の大統領選挙に至っています。


#ホーフスタッター本においては、孫引きになりますが、「反知性主義自体は形や程度の差はあれほとんどの社会にみられるだろう」とされているそうです。


究極事例を出すなら、やはり文化大革命(犠牲者の絶対数)とクメール・ルージュ(犠牲者の対人口比率)。

じゃあどうすればいいのかと。結局はあるべきものが実現していないことが問題なのでして、反○○(韓、北、中、米、抵抗勢力、その他なんでも)のいちいちに反論したところで、内にこもるか他の○○に移るかでしかありません。浜の真砂は尽きぬとも、世に悪党の種は尽きまじ、いくらでも標的は見つかりますし、それに対峙するものとして自らを位置づける彼(女)らの言説には「正義」の色彩がつきまとい、勧善懲悪の響きから不即不離にならざるを得ないのです(webmasterのように「正義」というだけで眉唾だと思う人間は、それだけで糾弾されそうです(笑))。現状の不満を「正義」を語るものとしてのプライドで埋め合わせているわけですから、不満を解消すれば、一部の原理主義者を除けば憑き物を落とすことはできるはずです。(強調引用者)


π度π派ーハウスの書き込みも
活発な議論が起こっていて面白かった


http://www.neats.org/cgi-bin/bbs/sansamp.cgi

>津田  投稿者:   投稿日:2005/06/28(火)08時22分43秒  ■  ★  ◆
> たぶん折る棚の人も実際に会えば気の良い兄ちゃんなんですよ。
> もっとインターネットの人はどんどんオフ会をやればいいと思います!


その「気のよさ」が(あるいは「気のよさ」ゆえに)
無礼な方向に出ているというのがここまでの話と近いきがしますよん。
そういう人たちは口調こそ違えどかつて2ちゃんねるにいたのだが、
ここ1、2年でブログに来ているというのがおれの思っているところ。
それはある意味日本人のマジョリティそのものじゃないかって気がするのだが
おれは基本的に相手したくないなあと何年も前から思ってます(笑)


参考:2005/06/28(火)03時53分57秒

ああ、こういうやつ↓のことですよね、それ


NKN:ノータリン感想ノート - Flashコミュニケーション
http://d.hatena.ne.jp/uboshi/20050502/p2

Flash板は現在人口の減少とともに「内輪受け」が通じる範囲が狭くなってしまっているので、そうした「Flash職人になればあの人と友達に!」みたいな空気は2004年に入る頃にはかなり減少していたように思います(2ちゃんねる内部のネタ等は継続してますが。AA系とか)。昔からやってる人(プロ含む)とアマチュアのレベルの差が拡大しつつあるという事態も絡んでいるんですけど。


ご丁寧に「strikeタグで該当部分だけ消」してるし(最初ね)
何も考えていない印象論の典型例


ていうか、こいつのダサいネーミングセンス(ノータリン)も
自分は正しい事なんて言ってないですから、っていう
チャンコロに典型的なエクスキューズのつもりなんでしょうねきっと
そういう発想そのものが低能というか
早くブロガーやめてオホーツクにカニ漁にでも行けばいいのに、と思います
少しは腐った根性も修正されるでしょう